観光で外せないイーストサイドギャラリーと東西ドイツの歴史。ベルリンの壁の歴史を知ってより深い観光を

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ベルリンに来たら誰もが目指すであろう地、イーストサイドギャラリーことベルリンの壁。ドイツの観光地と言えば5本の指に入るであろう場所です。

ベルリンの壁自体はイーストサイドギャラリーの他にも現存するものはありますが、アーティストの壁画作品が見られるのはこの場所です。

私も例に漏れず行きましたが、ドイツの歴史と合わせて見るとより感慨深いものがあると思います。昔は学校でざっくりしか習わなかったドイツの歴史ですが、ここではもう少し掘り下げてみたいと思います。

戦後のドイツの歴史

分断されたベルリン

出典:Wikipedia

第二次世界大戦に敗戦したドイツは、国を東西に分断されました。この時首都ベルリンは戦勝4ヵ国(フランス・イギリス・アメリカ・旧ソ連)に分割統治されることになります。

これにより4ヵ国の占領政策は対立を極め、1990年までの実に45年もの間ドイツは東西に分断されたままでした。

ソ連は西ドイツ側に西ベルリンを放棄させる目的でベルリン封鎖を行い、陸上交通路の全てを遮断しました。電気や水などの経路も遮断されたため西ドイツ側の市民生活を苦しめることになったものの、アメリカは空路から援助物資を送ったためソ連がこの目的を果たすことはありませんでした。

これが以前の記事でご紹介したテンペルホーフ空港公園で行われたベルリン大空輸作戦です。

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2018.06.30

西ドイツへの逃亡

西ドイツは暫定的にボンを首都に置きドイツ連邦共和国を設立、東ドイツは東側のベルリンを首都にドイツ民主共和国を設立しました。

この時点ではまだ東西ドイツの行き来は自由にでき、東側の政策に不満を持つ人たちがたくさん西側への逃亡が相次ぎました。ベルリン暴動が鎮圧された時点で既に年間30万人の東ドイツ人が西へ逃れていました。

逃亡の入口は主に西ベルリンからで、特に若者が多く、また医師や技術者の逃亡は東ドイツ経済にとって大きな痛手でした。

このためソ連は東ドイツからの難民流出を阻止すべく東西の遮断、つまり壁を建設する方向で動き始めます。壁は国境ではなく東側に建設されるよう動いていたため、西側は何もできない状態でした。

ベルリンの壁の建設

出典:Wikipedia

それは一夜の出来ごとでした。

1961年8月12日(土曜)の夜から13日(日曜)にかけて壁の建設は行われました。その日は普通の週末のように時は流れ、東ドイツから西ドイツへ映画を観にいく人など”いつもの休日”の光景でした。

それは東ドイツ政府の高官達でさえも同じで、12日の夜10時にあと3時間もしない内に東西は完全に閉鎖されることを当時の国家評議会議長・ウルブリヒトに知らされるのでした。

政策実施からすぐに有刺鉄線は張り巡らされ、午前1時30分に東ドイツは全ての公的輸送を停止します。これにより西側に行っていた人々は東側に戻ることができず、また東側に行っていた人は西に戻ることができなくなりました。この日1日で多くの人が家を失い、家族と離れ離れになりました。

壁と死の無人地帯

出典:Wikipedia

壁は東側、西側と2つ建てられました。その間には有刺鉄線と監視塔が置かれ、番犬と警備員以外は誰もいない無人地帯となりました。

壁の警備が強固なものとなってから、東側から西へ逃れるため壁を越えようとするものには射殺の許可が下されました。西へ亡命しようとする人たちは運良く逃れられた者以外、警備員に捉えられるか射殺されるか、あるいは国境の運河を渡る際力尽きて溺死若しくは落下死でした。

ベルリンの壁崩壊までに壁付近で亡くなった人は200人あまり、東ドイツから亡命しようとして亡くなったのは1200人以上に上ると言われています。

ベルリンの壁の崩壊

東側は幅100mの無人地帯があったため壁に容易に近づくことはできませんでしたが、西側は接近が可能でした。そのため壁の西側にはやがて壁の建設批難や撤去を求める政治的なストリートアートが壁を彩りはじめます。

その後、ハンガリー政府が東ドイツとの協定を破棄したことでオーストリアを経由して東ドイツ市民が西ドイツへ出国することが可能となります。

この時にはもはやベルリンの壁は有名無実化しつつ、東ドイツ国内でもデモが活発化するようになりました。この混乱の中1989年11月9日、東ドイツ政府が出国規制緩和策の政令案を決定したものの、広報担当者が内容を良く把握しないまま「東ドイツ国民は全ての国境地点から出国を認められる」とし、且ついつからかと言う質問に「ただちに、遅滞なく」と答えてしまいます。

これにより各国境検問所には多くの東ドイツ国民が殺到しました。本来は出国規制緩和のため査証の確認が必要でしたが、膨大な国民が検問所に殺到したため、警備員はやむなく検問所を解放します。これによりベルリンの壁は崩壊し、翌日11月10日には壁そのものが崩壊しました。

翌年1990年10月3日、東西ドイツが統一しました。

イーストサイドギャラリーへの行き方

SバーンOstbahnfof駅から徒歩5分以内の距離にあります。壁はシュプレー川沿いに長く続いており、その全てにアートが施されています。

まっすぐ壁を鑑賞しながら歩いていけば、Warschauer Straße駅にたどり着くので戻る必要もありません。途中シュプレー川のほとりで休憩するもの良いですね。

Warschauer Straßeまで殆ど道路沿いを歩き途中お店はないので、特に夏の炎天下時期などに行く方は水分補給の飲み物を忘れないようにしてくださいね!

East Side Gallery
Mühlenstraße 3-100, 10243 Berlin
24時間営業

ベルリンの壁博物館

ここではベルリンの壁の歴史が学べ、展示物を見ることができます。当時の暮らし、壁の模型、西への逃亡劇。ショッキングなものもありますが、当時何が起きていたのかを知ることができます。お土産屋さんもあり!

Wall Museum-Checkpoint Charlie
Friedrichstraße 43-45, 10969 Berlin
月曜〜日曜 9:00-22:00

チェックポイントチャーリー

東西ベルリンに分断されていた時、多くの国境検問所がありましたがこのチェックポイント・チャーリーはその中でも一際有名なところです。周辺には壁の歴史を伝えるパネルが連なっており、ここを通って多くの東ドイツ国民が西へと渡りました。

今でも分割統治時代の4ヵ国の国旗がはためき、その歴史を伝えています。

Checkpoint Charlie
Friedrichstraße 43-45, 10117 Berlin
24時間営業

まとめ

いかがでしたか?この歴史を踏まえるとより現地に行った時の理解や感動が増すと思います。数メートルの壁も当時の人たちにとってベルリンの壁は家族や故郷を分断する大きな柵として聳え立ちました。

ドイツは東西に分かれていたその歴史から、まだ東ドイツの歴史を色濃く残すお店や地域があります。東ドイツならではの小物や料理を食べられるお店もあるので、またご紹介したいと思います!

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